介護の輪の「介護の理想」
「介護の理想」の書込一覧です。
介護の理想
【閲覧数】110,274
2008年05月14日 11:57
人が壊れてゆくのを見るのは辛いです。
まして、肉親ですからなおさらです。我が身の未来を見るようです。
殿も最近は「ちくしょう」とか「アーアーー」とか辛そうな表情を
見せることが多くなりました。おじちゃんも辛いです。
イライラするのは、何の役にも立たないとはわかっていても、
殿もおじちゃんも、ときどきイライラのエネルギーが湧いてきます。
悟った人は、イライラすることはないのでしょうか。
介護には、人間の様々な矛盾が凝縮しているように感じます。
人類が、介護の理想を実現できるようなら、すべての矛盾は
越えてゆけるような気もしますが、難しそうです。
理想から見れば、すべての人は認知症のようなものかも知れません。
今朝も失敗しました。気を取り直し、何度でもやり直しましょう。
どんな時も、うひょひょと笑いながら、全力で今を楽しみたいです。

書き込み数は640件です。 [ 1 2 3 4 5 6 7 8 9 ... 32 ]
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介護者の視点
【返信元】 介護の理想
2019年12月09日 16:29
赤いサングラスを掛けたら、目の前のものが赤く見えます。
思い込みや習慣が、視力の一部を奪うわけです。認知症の
親と新しい関係を作るのに、色眼鏡が邪魔をしていました。
この世界で、自分は無力な被害者、犠牲者だと思ってしま
うと、そうなってしまいます。自分がなぜこんな気持ちに
なるのかを冷静に考え、そこから抜け出す必要があります。
世界は楽しいことがいっぱいです。それを見つけることが
できるのは、見つけようとした人だけです。楽しいことな
んかないと思えばそうなってしまいます。
強い感情の源は、基本的に、相手ではなく、自分の中にあ
ります。誰もが自分の人生の主人公です。客観的な視点が
問題を解決に近づけます。自分の認識にこだわらず、様々
な可能性に意識を向けて考えるしかないようです。
何をどう変えるか。何をどう選ぶか。何をどう決めるかは
あくまで自分が主体なのでした。
綺麗事
【返信元】 介護の理想
2019年12月06日 18:22
介護は綺麗事ではないと良く言われます。実際、私もそれを経験しました。
それは、実情に合わず、世間体のいい言葉、その場だけの取り繕った言葉と
受け取られがちですが、言ったときは綺麗事でも、実行できれば綺麗事とは
言いません。綺麗事かどうかは、実現できるか、できないかにかかっている
わけです。綺麗事をどう受け止めるかは、それぞれの考え方次第です。
現実や真実は、時に残酷です。本音は、時に自分勝手です。綺麗事は、理想
を語ることですが、世の中は綺麗事の歴史だけでないのも事実です。
それでも、人は綺麗事に救われることが多いものです。綺麗事を好きな人も
嫌いな人も、両方居て良いのです。隠しても自我は口から出てきます。
人は自分の発する言葉に左右されがちです。綺麗事に近づこうと努力するこ
とは、皆が幸せに近づくための一つの方法です。介護での様々なノウハウは
綺麗事に聞こえることもありますが、本当は、誰でも綺麗事が好きなのだと
思います。美意識と調和したストーリだけが、命や人生に意味を与えます。
綺麗事に触れた時、私たちは感動します。
ヒューマニズムは人権に辿り着きました。介護には、介護難民・老老介護・
認認介護・老人虐待・高齢者の一人暮らし、後見人トラブルなど様々な問題
が言われていますが、現在介護中の世代も、やがて自分の身を処することが
できない弱者になってしまうことも有り得ます。私も父に辛い思いをさせて
しまいました、殿、申し訳ござりませぬ。おほほ
介護者の心を強くするのは
【返信元】 介護の理想
2019年12月01日 14:52
介護はつらいことも多いです。自分の心の弱さを痛感することもありました。
私は、強くならなければいけないと思いました。どうしたら強くなれるのか
考えましたが、心は筋力強化のようなわけにはゆきません。心を強くする方
法は、なかなか見つからないのです。それでも、色々考えてみました。
一つは、自分の考え方を変えることでした。今の自分にこだわらず、つらさ
の原因を見つけ、出来ないことは潔く諦め、自分が強くなれる場所に行くこ
とでした。それは介護者サロンや、安心介護などのSNSでした。そこにはた
くさんの経験や考え方がありました。
そのことで、自分で耐えられる範囲が少しづつ広がったと思います。何より、
そこで言われた言葉が力になりました。私の質問や疑問に対して「それでい
いんですよ」などという言葉は、もっとましな介護をしようという気持ちが
湧いてきて、失敗から学ぶことにつながったと思います。
心を強くしてくれるのは、やはり、人なのでした。結局、私の萎えそうな心
を支えてくれたのは、被介護者である父の笑顔だった気がします。父が自分
を越えて行く力を私にくれたのでした。
私は思いました。強くならなくても良いのだと。泣きたい時は隠れて泣き、
今の感情を認め、味わいつくすことで、気持ちが解放されるのでした。その
中で、自分がこの世に生まれ、今生きていることだけで、すでに恵まれてい
るのだと、苦しいはずの父が、身をもって教えてくれるのでした。
それぞれの都合と介護
【返信元】 介護の理想
2019年11月27日 22:33
誰もが、自分の思うような人生を生きてゆきたいと願います。そんな時の人間関係では、
相手に自分に都合の良い対応や態度をとって欲しいと願います。そして、その思いが強す
ぎると、相手をコントロールしようとしてしまいます。本人も気づかないうちに、様々な
理屈や口実を設けてそれは現れてくるものです。親が子供を育てる時や、親を介護する時
には顕著になります。介護中、私にも父にもそれが現れてしまいました。甘え合戦です。
被介護者の「その人らしさ」を守るのが、介護の大切な要素だといわれることがあります。
その人らしさとは何でしょう。それには、介護者と被介護者の信頼が絶妙なバランスで保
たれる必要があります。つまり、介護される人と介護する人の関係で介護は変わるという
ことです。私は、家族であることを上手に利用できれば、家族介護は楽だと思いました。
家族介護と違い、介護施設では、その人らしさを捉えどころのないものと感じながら日々
のケアを行うことも多くなると想像できます。そのため、介護職によって重要視するケア
が異なり、統一したケアが提供されにくいことも想像できます。提供するケアが成功すれ
ば介護のやりがいに繋がり、その人らしさという言葉を使うことが肯定され、ケアが失敗
すれば介護の困難やジレンマに繋がり、その人らしさという言葉に懐疑的になる事もある
でしょう。そこが施設介護の難しいところだと思います。私は、父の介護だけを考えれば
良いのですから楽だと思いました。介護職の弟も「兄ちゃんは一人を見ればいいのだから
楽だと思った方がいい」と言いました。その通りだと思いました。
認知症の介護では、誰もが現実と理想の狭間で苦しみます。私もそうでした。その原因は、
経験が足りないことが大きかったと思います。それは、介護を受ける父も同じでした。
慣れるという単純なことが大きな力になります。慣れは、柔軟な心から生まれる習熟です。
多くの人の介護経験から生まれた様々な方法は、ほぼ、間違いなかったというのが私の実
感です。言い訳や責任転換が、私の介護の慣れを遅らせてしまったのでした。
ボーッと生きてていいんだよ!
【返信元】 介護の理想
2019年11月24日 08:44
介護者は、不安や心配に押し潰れそうになってしまうこともあります。
認知症の父を前にし、私も本人も混乱していました。
今ある介護を観察し、小さななことに左右されず、動揺せず、今を認知し、
今日の責任を果たせれば上等だと思うのですが、過去の出来事が、未来の
不安や心配と重なり、増幅されてしまうのでした。
過去を振り返らず、未来を追い求めず、今を大切にして生きてゆくしかない
とはわかっていても、それができなくなってしまうのでした。
たぶん介護は、ボーとしている方が良いのです。その方が良いアイデアも
出ますし、体にも心にも良いのは確かです。何より、ボーとしている時は
平和です。そんな時間が必要だと感じるのでした。
私たちは、自分の姿を鏡で見ることはできますが、心は写りません。自分
の心の状態を整理するには、ボーとしている時間が必要です。ストレスを
感じる環境は、個人によって様々ですが、自分の感情を客観的に見られる
ようになるには、ボーとできる気分転換の時間が必要です。
「ボーと生きてんじゃねえよ」でなく、ボーッとできたら、それが頑張り
過ぎない介護かも知れません。
経験と知識は、脳の神経回路が違うような気がします。ボーとしている時、
多くの知識が組み合わされ、応用可能で、創造的な経験知になります。
それが楽な介護につながるような気がします。それは、ボーとしている柔
軟な心に起こると思います。私は、デイやショートで気持ちをリセット
することができました。
介護で気付いたこと
【返信元】 介護の理想
2019年11月21日 15:28
介護で気付くことは多いです。過去の人生の基本的な考えを改めて問い直さければ
ならないこともあります。自分には何が大切で、どんな自分でありたいのか?。
人間関係のほとんどは、優しいフリをしたコミュニケーションの上に成り立ちます。
それでも、ささくれだった心の中にも、純粋な涙の泉はあります。その優しさの源を
信じ、心が折れそうになっても、何とか今の自分を越えてゆくしかないのでした。
たとえ、僅かでも、誰に認められなくても、何とか、自分に合格点を出せるようにし
てゆく以外に、幸せを発見する道はないように思いました。
誰もが視点しだいで、朝から気が重くなることばかりです。面倒なことや心配事を数
えたらきりがありません。まして、介護中ならなおさらです。その辛いところにだけ
に視点が向いている限り、気が重くなってしまうのでした。生活を楽しくするには、
辛いことを数えるのではなく、今ある幸せを数えてゆくしかないと思いました。
実際、素敵なことも案外多いものです。ある意味、苦楽は自作自演とも言える面もあ
ると思います。感情は自分のものですから、その責任も自分自身にあるということに
なります。良くない感情を起こさせるきっかけを起こした相手があっても、それをどう
受け止め、どのように生きるかは、自分で選ぶことができるのでした。
切羽詰まって、初めて見えないことが見えて来ます。昔の人の言う通りです。感情に
支配されないために、デイやショートを使おうとしても拒否されます。堪忍袋にも
裂け目が見え隠れします。誰でも孤独の中で冷静さを保つのは難しいものです。
今の私は、冷静に介護を振り返ることができますが、介護中は、それが十分ではあり
ませんでした。助けを求めるということは、プライドを捨てることでもあります。
頭を下げて助けを求めました。「今更バカは怖くねえ」認知症の父の言葉です。
それは、介護者の私にも当てはまる言葉なのでした。
老いるということ
【返信元】 介護の理想
2019年10月21日 19:28
人は子供の頃から、あらゆる局面で勝利の素晴らしさを教えられます。勝利も
素晴らしいことですが、私は、実際、負けから学ぶことが多かった気がします。
最近は、他人や他国に勝つことはもちろん、自然や病気にも勝利という言葉を
使います。さらに、老いと戦うアンチエイジングという言葉もあります。でも、
老いることはいけないことでしょうか?。歳をとって、若い頃できたことがで
きなくなるのは敗北なのでしょうか。それは自然なことで、全ての人に訪れる
しかたのない宿命です。何か意味があるはずです。様々な考えはありますが、
人は、言い訳の達人で、偏った見方を信じる達人でもあります。また、そうで
なければ生きるのが苦しくなります。知らぬが仏です。矛盾する教えもたくさ
んあります。理想から見れば、人は誰もが認知症と言わざるをえません。視点
が変われば、考え方も変わってしまうのです。
人生は、生きたまま死んでいるようなものだと言った人がいます。人生の終盤
は敗戦続きかも知れません。上手に負けるしかないのです、思うようにならな
い中で、人は老いてゆきます。介護者はそれを見届けます。介護という仕事の
何とも切ない現実です。戦わず、少しでも穏やかに過ごすしかありません。
勝利は、本来、仏教の言葉で、勝(すぐ)れた利益(りやく)を意味するそう
です。他を負かすという意味は後からできたようです。他人と比較したり、若
いころの自分と比べると、老いは辛いだけになりかねません。高齢者には、比
べる必要のない価値が必要です。それが仏教の言う勝利なのかも知れません。
優れた利益とは慈悲だと私は思います。それは、菩薩が人々を憐れみ、楽しみ
を与え、苦しみを取り除くことだそうです。はるか昔から、人生は、苦しみと
の戦いなのかも知れません。弱って行く親の介護をしてゆくことは、明日の自
分を見ることでもあり、何とも切ない仕事です。介護する側もされる側も、本
当に必要なのは、ありのままのを、慈悲や愛で包み込むことかも知れません。
親の暴言や介護抵抗で心がささくれ立っている時でも、私たちは、どこかで優
しさを期待しています。まして、介護される側はなおさらでしょうね。
怒りのコントロール
【返信元】 介護の理想
2019年10月15日 09:08
ストレスを感じると誰でも攻撃性が生れやすくなります。介護では、怒りっぽくなるといった
ことが双方に起きます。不満が自分の外部に向かい、それがエスカレートすると、暴言や暴力
などになります。イライラしたり、怒りっぽくなったりするのは、ストレスに適応するための
反応かも知れません。それは、介護される側も同じです。自分が直面している問題の原因を誰
かのせいにし、攻撃したりすることで、気持ちを安定させようとするのかも知れません。
攻撃が感情に出ると、怒りや被害者意識になります。高齢者虐待の多くは、介護者のストレス
への反応だと思います。それが、自分自身に向かうと罪悪感になるのではないかと思います。
私は介護中、必要以上に父を怒ってしまったことがあります。怒りのコントロールは、社会生
活をしている限り、誰にも必要なことです。怒りは、自分が当然と思っている前提が崩された
り、自分の大切な価値観が尊重されなかったり、自分が我慢していることを平然とやられたり、
自分が無視されたと感じたり、大切なものを奪われたりすると湧いてくる強い感情です。
認知症の父に介護抵抗が始まった時、私は苛立ち、初めて父を苛めたくなる気持ちが自分の中
にあるのに気づきました。その時から、私の介護修行は始まりました。社会では、怒りは捨て
るしかない面があります。怒りの根本原因を分析し、冷静に対処するしかなさそうです。小さ
な怒りを繰り返し耐えることで、私たちは、少しづつ怒りをコントロールできるようになった
わけです。ほとんどの怒りは、自分の正しさをぶつけあうことです。家族が認知症の場合は、
実際にはどっちでも良いことでも、必要以上に双方が勝ち負けにこだわってしまうことがあり
ます。介護は、するべきことをすれば良いと考え、失敗しても、諦めずに努力を続けるしかあ
りませんでした。数年間の介護で、その稽古量はかなり多くなります。簡単ではありませんが、
少しづつ上達してきたように思います。怒りは、自分の気持ちを傷つけ、疲れるだけでした。
理屈はわかっていても、甘えん坊の私には難しいことでした。でも、気持ちを自由に保つこと
ができれば、少しづつ良い介護ができるようになるものです。介護の辛さは、たくさんありま
すが、弱ってゆく姿を見続けることは本当に辛いことです。それさえも怒りに変わってしまう
こともあるのが、介護の難しいところかも知れませんね。
介護を終えて
【返信元】 介護の理想
2019年10月07日 10:19
持っていた宝くじを、当たり券と勘違いすれば、凄く幸せな気持ちになりますよね。
それが間違いだったとわかるとガッカリします。人生はそんなことの繰り返しなのか
も知れません。認識の仕方だけでも状況は変わってしまうということです。
介護を終えて一人暮らしになり、今は猫と暮らしています。たぶん、猫も看取ること
になるでしょう。私は今、その猫に助けられています。猫のおばやんは、私の後を付
いてきます。一緒に眠ります。外に遊びに出ても帰ってきます。毎朝起きると、私に
頭をぶつけて挨拶をします。撫でると目を細め、喉を鳴らして嬉しそうです。近くに
そんな生き物がいると、何故か落ちつきます。どうやら、おばやんも同様のようです。
でも、布団におしっこをしたり、悪いこともたくさんします。家の中は爪研ぎなどで
ボロボロです。でも、こちら側のルールは通用しません。許すしかないのです。
私は、認知症の父を以前の父に戻そうとし、父はそれができずに苦しみました。父は
変わってしまったのです。それに合わせて私が変わってゆくしかないのです。それは、
過去の父と別れてゆくことです。とても辛いことでした。
それでも、私が対応を変えることで、父も少しは安心できたようです、私を信じ、感
謝の言葉も出るようになりました。冗談も理解します。歯のない笑顔は埴輪のようで
とても可愛らしく、一緒に暮らす相棒としては、悪くないと思いました。それでも、
私にとっては父親です。猫の世話をするより、はるかに意味を感じるのでした。
人はプラス志向で生きてゆくしかないですが、老化と認知症は、プラス思考だけでは
どうにもならない面があります。人として、できて当然のことができなくなるのです。
それは、父にとっても辛くないはずがありません。粗相をして、子に叱られるのです。
今を生きるしかない人生ですが、もし、人生を何回も繰り返すことができれば、介護
されるという辛い立場も経験し、人生で何が大切なのかも少しはわかり、介護をする
のも、されるのも楽になるかも知れません。1度しかない人生です。私も、少しでも
かわいい被介護者になるため、無駄になる可能性も高いですが、できる修行があれば
してゆくしかありません。おほほ
人間の尊厳って何?
【返信元】 介護の理想
2019年09月16日 20:15
歴史を見ると、人間の尊厳は建前だけだと思えるようなことがたくさんあります。
さらに昔は、偉い人以外には人間の尊厳などはなかったのかも知れません。
夢を見ました。私は脳の病気でベッドに拘束されて暴れています。ベッドの周りに
は医師と看護師、親戚や友人もいます。誰もが色のない暗い顔で、私を見つめます。
私は言葉が話せず、ただわめき、動かない体を全力で捩り、暴れています。普通に
見れば、私は廃人に見え、以前の私ではないと誰もが思う状況です。でも、私の頭
はイライラしていますが、連続した記憶も、感性も生きているのです。私が言いた
いことはただ一つ、背中が痒くてしかたないということなのです。痒くて痒くて堪
られないのです。拘束されていて動けないので、血の出るほど掻いて欲しいのです。
誰も気付いてくれません。私は認知症患者として一括りにされてしまったようです。
その時、誰が私の背中にの痒さに気付いてくれるでしょうか。恐ろしい夢でした。
人間の尊厳とは、高い倫理性が求められますが、とても曖昧なもので、定義されず
に使われ、案外簡単に無視されてきたのかも知れません。道徳的な要求には耐えら
れない構造なのでしょうか。人の心は計り知れないものですが、私は、背中の痒さ
に暴れるしかないということかも知れません。尊厳とは、強引に言えば、みじめな
思いを強要されない事だと思います。虐められないという事です。難しいことですが、
心が破綻しそうになっている。あるいは一部が破綻していたとしても、その尊厳を、
できる限り守るのが、介護者の仕事かも知れません。
介護は自分の問題でした
【返信元】 介護の理想
2019年09月14日 16:08
介護は他人事ではありません。自分のこととして対処するしかありません。
私たちは、つい、目の前にイライラする原因があるような気がしますが、
実際は、自分の中にいらだちの種があるからイライラするわけです。
足りないものがあるから幸せではないと思っていても、実際は、視点が変わ
れば、今の瞬間にも幸せになる可能性もあるわけです。幸福も不幸も、自分
で選んでいると言えるのかも知れません。視点次第ですが、今ある幸せを数
えれば、すぐにでも幸せになれる可能性もあるわけです。
私たちは、今しか生きられないのに、過ぎ去った出来事や、まだ来ていない
未来の不安を、今の苦しさに重ねてしまいがちです。それほど不幸でもない
のに、介護では、雰囲気で不幸が定着してしまうこともあります。それは避
けなければいけません。できるだけ、気持ち良く介護したいですからね。
新しい自分を経験するために生きている私たちですが、一つの見方には、見
えていない部分もあるものです。異なる見方に真摯に耳をかたむけることで、
自分には見えていない部分が見え、客観性を保ちやすくなります。
孤独は介護者の大敵です。私は、デイの日などを利用し、介護者のサロンな
どの集まりに積極的に参加し、自分の介護を見つけようとしました。
認知症の介護は、たとえ親子でも、今までの人間関係を、新しく作り直す必
要があります。被介護者と共に経験を重ねながら、少しづつ、慣れてゆくし
かありません。新しく気付いたことがあれば、あっさりと行動を変えてしま
いましょう。人生が長くなれば、介護は普通に起きることです。力まず、上
手に流されることができれば、介護も少しは楽になるような気がします。
介護者は何度でも立ち直る
【返信元】 介護の理想
2019年09月13日 06:19
私は、65歳を過ぎた頃から、自分の肉体が自然に還りつつあることを感じ始めま
した。父の介護を通して、最後は自然に還ることを見てきたのに「あーでもない
こーでもない」と、ジタバタしながら、お医者通いで、薬を飲み続けています。
弱ってしまった親を介護するのは、当然のことだと思いました。介護は、人生の
道場という面もあります。今までの常識だけでは通用しないのが介護です。
私たちには殺した細菌の悲鳴は聞こえません。食べた肉の死の瞬間も知りません。
細菌の存在や、家畜の死に意識を持ってゆかないから痛みを感じないで済むわけ
ですが、今までに感じなかったことを感じるようになるのが、親の介護でした。
介護で経験する怒り、恐れ、悲しみは、とても強い感情で、日常生活がそれに支
配され続けると大変です。そうなると、自ら苦しみを作り出し、それを制御でき
ずに苦しむ場合もあります。誰もが、喜びや悲しみに満ちた人生を生き、やがて
自然還ってゆく存在です。被介護者の本音は、無条件に愛して欲しいということ
だと私は感じました。それは、高齢者も子供も同じで、その適任者は家族です。
贅沢な施設や、美味しい食事や、素晴しい介護環境より、家族に大切な人として
扱って欲しいのが、被介護者の本音だと感じるのです。先の見えない状況にある
被介護者の心の支えになるのは、やはり、家族なのだと思います。
人が生きるために、優しい心というのは、どうしても必要な条件だと、私は思い
ました。どんな宗教でも、共通して説いているのは、この「優しさ」ということ
で、人間は、互いに助け合うことが、大きな力になると教えています。
介護中は、苦しいことも多いですが、運命として受けとめ、状況を少しでも明る
くするため、謙虚に頭を下げて助けを求めるしかありません。絶望して、投げ出
したくなることもある介護ですが、助けてくれる仲間を見つけ、たとえ、介護で
失敗することがあったとしても、気を取り直し、新しい介護者として、何度でも
立ち上がり、介護の仕事の意味に気付いてゆくしかないと思います。
介護を楽にする言葉たち
【返信元】 介護の理想
2019年08月22日 08:20
家族が介護状態になると、介護する方もされる方も、今までとは違う関係に
なります。親子であれ、夫婦であれ、新しい付き合い方が必要になります。
期待も、役割も、力関係も変わり、双方が混乱する時期もあるのが普通です。
誰でも介護は簡単なことではありませんが、人生の中では大切な時期です。
介護も人生も、正解は一つではなく、様々だと思いますが、どんな方法でも、
介護に関わる双方が、少しでも幸せになれるなら、それが一番だと思います。
そのために、様々な言い訳や理屈を考えます。自分の気持ちを整理するために
私も色々考えました。人から聞いた話や、思いついたことを書き出しました。
その都度、自分を助けてくれた言葉です。皆さんにもそれはあると思います。
辛さを感じている介護者には、どんな言葉が役立つかわかりません。
今は受け入れられない言葉でも、タイミングで、受け入れられる時もあります。
小さな言葉が小さな余裕を生み、それが重なることで、介護の流れは良くなる
と思うのです。

1 失敗しても、すぐに新しい介護者に生まれ変わる
2 心掛け次第で、要介護者は福を育む田んぼになる
3 介護者が被介護者より先に変わるしかない
4 初めは嘘でも、それを真実に変えれば良い
5 情に流されないように親を名字で呼ぶ
6 感情はパワーがあるが、真実ではない
7 あくまでも、ありたい自分を目指す
8 別れの日を想像しながら介護する
9 介護は辛いだけじゃない
10 介護は人生修行
11 介護は生前供養
12 バカヤロウを言い合うのはバカヤロウの極致
13 失敗は経験に変える
14 介護も本気になれば楽しみもある
15 慣れは、上手に習熟することで、介護の最大の力になる
16 人は見つめたものしか見えず、見つめるほど拡大する
17 家族介護は、一人を看れば良いのだから楽なはず
18 人は、理想からみれば誰もが認知症
19 満たされた介護者は誰も攻撃しない
20 介護されるより、する方が良い

ここからは、介護された父の言葉です。これは介護者の私も助けてくれました
1 笑うより良いことはねえ
2 今更バカは怖くねえ
3 うんこが怖くて飯が食えるか
4 痛いところがなければ上等だ
イライラを減らすには
【返信元】 介護の理想
2019年08月01日 05:58
イライラは、怒りを我慢している状態です。自分が自分に許していないことを
他人が平然としているのを見ると、許せない感情が湧きあがるのを経験します。
それは、自分の中にも同じ欲求があるということです。人の不完全が目に入る
ということは、自分の中にも、同じような不完全があるということです。
また、矛盾する感情を同時に抱えてしまうこともあります。細かいことは色々
ありますが、簡単に言ってしまえば、トラブルというのは、互いが互いの正し
さをぶつけあっているということです。自分の中で、いくつもの価値観が戦っ
ていたのでは、気持ち良く介護を続けることはできません。
私はこんな風に考えました。人は迷惑を掛け合う存在です。何もできない赤ん
坊で生まれ、最後は介護され、供養までしてもらいます。全く誰にも迷惑をか
けずに生きることはできませんから。互いに堂々と迷惑を掛け合うしかありま
せん。自分が迷惑をかける分、人の迷惑も、甘んじて受け止めれば良いのです。
そう思う以外に安心はありませんでした。それが無理と感じたら、施設もあり
ます。そのための施設です。入所申込書は私のお守りのようなものでした。
イライラも含め、あらゆる感情は全身全霊で受け止め、一旦は味わい尽くすし
かないと思います。人は気付いてしまえば、どんな問題も自分の問題になり、
解決の糸口が見えてきます。誰かのせいにしていては、突破することはできな
いと、介護の中で何度も自分に言い聞かせていました。
イライラを乗り越えるには、その意味を理解することです。それは、短い時間
に生じた感情の一面で、風景のように過ぎ去ってゆくものです。自分の本当の
気持ちに意識を向け、自分が今感じている感情を流れの一部として捉え、イラ
イラを他人事のように自分から切り離すのです。簡単に言えば、良くない思い
は、屁のように早く忘れてしまうことです。これも慣れでした。おほほ
介護では、過去の常識が通用しなくなりました。
【返信元】 介護の理想
2019年07月29日 20:42
どこの国のどの時代でも、社会は私たち人間を生まれたままで、ほっておきません。
生まれたときから、子どもは多くの大人達によって、社会の善良な一員として教育
されます。人間の本質がどこにあるのか、私には良くわかりませんが、人間は恐ろ
しく身勝手にも、残酷にもなれます。何が人間の本質なのか?。私は父の介護で考
えるようになりました。いくつもの矛盾する感情を同時に抱える介護です。自分の
本当の気持ちを見極めるのは、とても難しいことでした。
一人で生きていると豪語しても、社会で生きている限り、必ず誰かとつながってい
ます。でも、介護するのが本当に嫌なら、介護から逃げることは可能です。全ての
縁を切って蒸発すれば良いのです。それこそ自分の為だけに生きられます。全ての
縁を切ることのできない私は、何とか楽しい介護を目指すしかありませんでした。
私たちは、時代や環境の影響を受け、価値観や行動が決まります。それが本当に正
しい選択なのか、私には自信が持てません。もし、現代社会から隔絶した島で、子
供達だけで社会を作り上げたら、どんな社会ができるのか。もし、貨幣が発明され
なかったらどんな社会になるのか?。私は根本から考え直しました。常識だけでは
介護がうまくゆかないのです。結局は良くわからないのですが、色々な妄想やアイ
デアは湧いてきます。介護は、今までの価値観だけではうまくゆかないのです。特に
認知症の介護では、介護者は被介護者に合わせて柔軟に変わってゆくしかありません。
様々なアイデアを試しました。難しくても、明るく頑張る以外に道はないのでした。
介護では、追い詰められないことが大切です、上手に気分転換をし、柔軟性を失わ
ないようにしたいです。介護の孤独を避け、サロンなどに参加するのも良いと思い
ます。視点が変われば世界の見え方も変わます。それが介護の流れを良くしました。
介護されて気付いたこと
【返信元】 介護の理想
2019年07月14日 08:30
介護されるようになると、介護してくれる人の言葉や態度に敏感になります。
私は入院中、介護される立場を経験してそう感じました。オムツを交換して
もらい。導尿してもらうことは、保っていた何かを捨てる経験でもあります。
病を得て、多くの人たちの世話になるしかなくなった場合、酷い言葉で侮辱
されても、疎まれても、介護してくれる人を信じ、泣いて親の後を追う子供
のように、人を信じ続けることは、私には難しいと感じたのでした。
病人は、病人として精一杯生きるしかないとは思うのですが、苦しい中でも
可愛い高齢者でいることは、思った以上に難しいことなのかも知れません。
自信をなくし、卑屈な気持ちになっているところに、長い人生の中でどうにか
保ってきたプライドが崩れてゆく場合、良い高齢者であり続けるのは、私には
とても難しいことに思えたのでした。多くの高齢者が我が儘になるのも理解で
きます。介護されるということは、長い人生の中でも大きな転機です。
自分の都合に合わせた思考をする傾向のある私たちです。わかった気になって
いればその時だけは安心ですが、困難は、思いがけない時にやってきます。
介護者自身が病を得て、愛する者からお荷物だと思われる悲劇もあるのです。
福祉という考えは、昔から、小さな集団や、家族の中にはあったと思います。
福祉は、公的扶助による生活の安定や充足、また、人々の幸福を公的に達成
しようとすることであり、共助の一つだと思います。お馴染みの介護保険は、
2000年4月に始まったばかりの新しい制度です。
人が幸福だと感じる内容や幸福感の度合いは様々ですが、人が人らしく生命を
維持し、生活を豊かに発展させようとすることは、日本国憲法で人間の権利と
されています。幸福は、一人の私的レベルの幸せのことですが、福祉は、一人
ひとりの集まりである社会レベルの幸せを意味すると思います。ここが介護の
難しい一面ですが、誰かが介護の犠牲者になってしまってはいけないわけです。
福祉は、自己責任という言葉で片付けてしまっては、福祉にはなりません。
幸せは、人より自分という利己的な面もある一方、福祉には、全体の幸せとい
うニュアンスがあるように思います。誰もが老人になり、誰かのお世話になる
可能性は高いです。私たちは、健康保険、老齢年金、介護保険などの保険制度
を、どんな風に充実してゆけるのでしょうか。
入院で幻覚の経験をしました
【返信元】 介護の理想
2019年07月02日 17:03
私は幻覚の経験が2度あります。一つは練炭による二酸化炭素中毒です。
そして、今回の手術です。術後の痛み止めの作用なのだと思いますが、
同じ幻覚が、繰り返し現れました。アナウンサーのような看護師さんが、
ベッドの前に現れ、私の病状の説明をします。イエス・ノーの二択で、
選んでゆくシステムです。結局、良くわからない結果になるので、何度も
同じ幻覚を見ていましたが、時間の経過とともに、現れなくなります。
どこかに映像機器が隠してあるのだろうと探しても、どこにもありません。
色々探して考えた挙句、これは、もしかしたら薬のための幻覚だと気付く
ことになります。今回の入院でも、新しい貴重な経験をしました。
二酸化炭素中毒の時の幻覚は、今でも忘れられない恐ろしいものでした。
私は、30センチほどの光の玉になってしまいます。でも、誰にも気付か
れず、こちらの意思も伝えられません。私は、誰とも関われない存在に
なってしまったのです。どの幻覚も、その時はもの凄くリアルなのです。
退院はしましたが、今でも不調は続きます。もしかしたら、今も幻覚を
見ているのではないかと思うこともあります。幻覚は、その時には真実
なのでした。お医者さんも看護師さんも、そして、介護者も、未経験の
ことに対処しなければなりません。経験のないことは、勉強するしかあ
りません。私は、色々工夫して、インターネットのサイトや介護者の集
いに積極的に参加し、多くの経験や考え方を知ろうと思いました。助け
になる考えや視点は必ずあります。それが、視野が狭くなりがちだった
私の介護を柔軟に変化させてくれました。介護は、する方もされる方も、
今までの生活や考え方を変えなければならない面がありますから、大変
なのは当然です。慣れるしか道はありませんでした。おほほ
入院体験 理学療法士の仕事
【返信元】 介護の理想
2019年07月02日 16:55
入院した病院は、リハビリに力を入れています。術後2日目にはリハビリが始まりま
した。2日目の朝「おはようございます」元気な声のお嬢さんがやってきました。
「今日からリハビリを始めます」「えっ!」やっとトイレまで行けるようになった
ばかりです。お嬢さんの次の言葉が私の心を捉えました。「水切りを検索しましたよ」
病院職員の誰かが気付いて教えたのでしょう。話は続きませんでしたが、理学療法
士のお嬢さんとの距離は一気に近づきました。これからリハビリを担当する相手の
事を知ろうとする態度はその後も感じられました。相手をその気にさせる話術も若い
のにお見事です。仕事を超えた喜びを見い出しているのも感じられます。便失禁や
導尿が必要で、何も食べられない私ですが、リハビリは医師の指示なのでした。
今回の入院では、辛い面もあるリハビリでしたが、唯一、楽しい時間になりました。
リハビリは1日2回行います。多少不調でも、私は乗せられて頑張ります。リハビリ
専用の部屋はとても広く、様々な器具が用意されています。患者がそれぞれのレベ
ルで頑張っています。階段を上り下りする人、歩行練習をする人。布団から上手に
寝起きするための練習や、キッチンで、料理の練習をする人もいます。
その設備を見ただけで、リハビリの意味が理解できます。健康とは、自分が健康であ
るかないかを意識しない状態のことかも知れないと思いました。
当然ですが、リハビリは無理強いはしません。できなくても、それを責めません。
高齢や病気で、様々なことができなくなって、それを責められたら、誰でも悔しい
でしょう。支配するのではなく、あくまでも、やる気を引き出すように励まします。
家族介護では、励まし過ぎたり、気持ちを押し付けたりしがちになってしまいます。
怒りは、自分の身を守るための感情で、全ての人に備わっている心の動きですから
なくすことはできません。人は強制されたり、指示されるのは好きではありません。
まして、介護者がイライラして、勢いにまかせて攻撃や非難をすれば、当事者は
誰よりも傷つきます。殴らなくても、相手の心を傷つけるような嫌味を言うのも
虐待に当たるとは、誰でも知っています。これをある程度コントロールできないと、
介護もリハビリもうまくゆかないでしょう。やはり、介護は難しい仕事です。
今回の入院で、過去最悪の事態を経験した私は、自信を失い卑屈になっていました。
医師や看護師さんの患者に対する接し方や言葉に敏感になりました。元気な側の正
論が、私を不穏にするわけです。その中で、患者を理解しようとする態度に、私は
救われる気がしました。やはりプロの仕事は経験と伝統に支えられているのでした。
今回も専門家に助けられました。家族介護者の一番の役目は、要介護者の心の支え
になることです。様々なサービスを利用しながら、自分流の介護方法を見つけ出し、
少しでも介護生活の中に楽しさや充実感を見出してほしいと思います。
Re[2]: 介護される立場を経験しました。
【返信元】 Re: 介護される立場を経験しました。
2019年06月19日 11:06
もう、ダイジョブダー
排泄をコントロールできない私・・・
【返信元】 介護の理想
2019年06月19日 11:05
手術後、水様便の激しい私は、リハパンに替えました。トイレまで間に合わずに
失禁した場合、ズボンやパンツの履き替えが難しく、看護師さんの協力が必要に
なります。その時に普通のパンツより、リハパンの方が私の気持ちが楽なのです。
父の介護をしたからですが、素直にお世話になる覚悟がしやすくなるのです。
下着や生活用品は、病院内の業者と契約しました。とりあえず必要な物はそれで済
みますが、ペットの世話や地域の用事などは、弟にお願いするしかありません。
弱った人が生きる為には、助け合うシステムが必要です。私は、父の介護という役
割を果たしましたから、弟たちは、私のピンチに協力してくれるわけです。
自分の孫以上に若い看護師さんに、オムツを替えてもらうことに抵抗感のない人は
いないでしょう。私は、明らかに臭くて汚い老人ということになります。おまけに、
途中からは、尿も出なくなりました。こうなると、もうプライバシーも何もあった
ものではありません。先からカテーテルを挿入。尿を抜いてもらうわけです。
看護師さんは、私を汚いものとして扱っているという感じを出さないようにします。
私も看護師さんの表情を見ないようにしています。何とも微妙な時間が流れます。
私は今、誰にとっても好ましい状況ではないわけですが、看護師さんは、それを
感じさせません。人の尊厳とは、大きなことではなく、そんな対応の一つ一つだと
思うのでした。この対応が、家族介護で難しいのは何故でしょう?。
カーテンを隔て、大きな手術を控えた家族が話しています。娘さんが「大丈夫だよ」
と励まします。普段は親風を吹かしていると思われるお父さんは、不安を漏らし、
話は噛み合いません。手術を終えたお父さんは大部屋に戻り、深夜は一人きりです。
小さな呻き声を漏らします。私はそれに応えて小さな呻き声を返します。深夜の大
部屋に、言葉のない共感が伝わります。介護者という生き方は微妙なものです。
小さな思いやりや、小さな気遣いを積み重ねるしかないのかも知れません。介護は
福祉や人権という、人間だけが到達した価値観、文化に支えられているのです。
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