介護の輪の「介護の理想」
「介護の理想」の書込一覧です。
介護の理想
【閲覧数】108,673
2008年05月14日 11:57
人が壊れてゆくのを見るのは辛いです。
まして、肉親ですからなおさらです。我が身の未来を見るようです。
殿も最近は「ちくしょう」とか「アーアーー」とか辛そうな表情を
見せることが多くなりました。おじちゃんも辛いです。
イライラするのは、何の役にも立たないとはわかっていても、
殿もおじちゃんも、ときどきイライラのエネルギーが湧いてきます。
悟った人は、イライラすることはないのでしょうか。
介護には、人間の様々な矛盾が凝縮しているように感じます。
人類が、介護の理想を実現できるようなら、すべての矛盾は
越えてゆけるような気もしますが、難しそうです。
理想から見れば、すべての人は認知症のようなものかも知れません。
今朝も失敗しました。気を取り直し、何度でもやり直しましょう。
どんな時も、うひょひょと笑いながら、全力で今を楽しみたいです。

書き込み数は634件です。 [ 1 2 3 4 5 6 7 8 9 ... 32 ]
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老いるということ
【返信元】 介護の理想
2019年10月21日 19:28
人は子供の頃から、あらゆる局面で勝利の素晴らしさを教えられます。勝利も
素晴らしいことですが、私は、実際、負けから学ぶことが多かった気がします。
最近は、他人や他国に勝つことはもちろん、自然や病気にも勝利という言葉を
使います。さらに、老いと戦うアンチエイジングという言葉もあります。でも、
老いることはいけないことでしょうか?。歳をとって、若い頃できたことがで
きなくなるのは敗北なのでしょうか。それは自然なことで、全ての人に訪れる
しかたのない宿命です。何か意味があるはずです。様々な考えはありますが、
人は、言い訳の達人で、偏った見方を信じる達人でもあります。また、そうで
なければ生きるのが苦しくなります。知らぬが仏です。矛盾する教えもたくさ
んあります。理想から見れば、人は誰もが認知症と言わざるをえません。視点
が変われば、考え方も変わってしまうのです。
人生は、生きたまま死んでいるようなものだと言った人がいます。人生の終盤
は敗戦続きかも知れません。上手に負けるしかないのです、思うようにならな
い中で、人は老いてゆきます。介護者はそれを見届けます。介護という仕事の
何とも切ない現実です。戦わず、少しでも穏やかに過ごすしかありません。
勝利は、本来、仏教の言葉で、勝(すぐ)れた利益(りやく)を意味するそう
です。他を負かすという意味は後からできたようです。他人と比較したり、若
いころの自分と比べると、老いは辛いだけになりかねません。高齢者には、比
べる必要のない価値が必要です。それが仏教の言う勝利なのかも知れません。
優れた利益とは慈悲だと私は思います。それは、菩薩が人々を憐れみ、楽しみ
を与え、苦しみを取り除くことだそうです。はるか昔から、人生は、苦しみと
の戦いなのかも知れません。弱って行く親の介護してゆくことは、明日の自分
を見ることでもあり、何とも切ない仕事です。介護する側もされる側も、本当
に必要なのは、ありのままのを、慈悲や愛で包み込むことかも知れません。
父の暴言や介護抵抗で心がささくれ立っている時でも、どこかで私は優しさを
期待している自分を発見します。まして、介護される側はなおさらでしょうね。
怒りのコントロール
【返信元】 介護の理想
2019年10月15日 09:08
ストレスを感じると誰でも攻撃性が生れやすくなります。介護では、怒りっぽくなるといった
ことが双方に起きます。不満が自分の外部に向かい、それがエスカレートすると、暴言や暴力
などになります。イライラしたり、怒りっぽくなったりするのは、ストレスに適応するための
反応かも知れません。それは、介護される側も同じです。自分が直面している問題の原因を誰
かのせいにし、攻撃したりすることで、気持ちを安定させようとするのかも知れません。
攻撃が感情に出ると、怒りや被害者意識になります。高齢者虐待の多くは、介護者のストレス
への反応だと思います。それが、自分自身に向かうと罪悪感になるのではないかと思います。
私は介護中、必要以上に父を怒ってしまったことがあります。怒りのコントロールは、社会生
活をしている限り、誰にも必要なことです。怒りは、自分が当然と思っている前提が崩された
り、自分の大切な価値観が尊重されなかったり、自分が我慢していることを平然とやられたり、
自分が無視されたと感じたり、大切なものを奪われたりすると湧いてくる強い感情です。
認知症の父に介護抵抗が始まった時、私は苛立ち、初めて父を苛めたくなる気持ちが自分の中
にあるのに気づきました。その時から、私の介護修行は始まりました。社会では、怒りは捨て
るしかない面があります。怒りの根本原因を分析し、冷静に対処するしかなさそうです。小さ
な怒りを繰り返し耐えることで、私たちは、少しづつ怒りをコントロールできるようになった
わけです。ほとんどの怒りは、自分の正しさをぶつけあうことです。家族が認知症の場合は、
実際にはどっちでも良いことでも、必要以上に双方が勝ち負けにこだわってしまうことがあり
ます。介護は、するべきことをすれば良いと考え、失敗しても、諦めずに努力を続けるしかあ
りませんでした。数年間の介護で、その稽古量はかなり多くなります。簡単ではありませんが、
少しづつ上達してきたように思います。怒りは、自分の気持ちを傷つけ、疲れるだけでした。
理屈はわかっていても、甘えん坊の私には難しいことでした。でも、気持ちを自由に保つこと
ができれば、少しづつ良い介護ができるようになるものです。介護の辛さは、たくさんありま
すが、弱ってゆく姿を見続けることは本当に辛いことです。それさえも怒りに変わってしまう
こともあるのが、介護の難しいところかも知れませんね。
介護を終えて
【返信元】 介護の理想
2019年10月07日 10:19
持っていた宝くじを、当たり券と勘違いすれば、凄く幸せな気持ちになりますよね。
それが間違いだったとわかるとガッカリします。人生はそんなことの繰り返しなのか
も知れません。認識の仕方だけでも状況は変わってしまうということです。
介護を終えて一人暮らしになり、今は猫と暮らしています。たぶん、猫も看取ること
になるでしょう。私は今、その猫に助けられています。猫のおばやんは、私の後を付
いてきます。一緒に眠ります。外に遊びに出ても帰ってきます。毎朝起きると、私に
頭をぶつけて挨拶をします。撫でると目を細め、喉を鳴らして嬉しそうです。近くに
そんな生き物がいると、何故か落ちつきます。どうやら、おばやんも同様のようです。
でも、布団におしっこをしたり、悪いこともたくさんします。家の中は爪研ぎなどで
ボロボロです。でも、こちら側のルールは通用しません。許すしかないのです。
私は、認知症の父を以前の父に戻そうとし、父はそれができずに苦しみました。父は
変わってしまったのです。それに合わせて私が変わってゆくしかないのです。それは、
過去の父と別れてゆくことです。とても辛いことでした。
それでも、私が対応を変えることで、父も少しは安心できたようです、私を信じ、感
謝の言葉も出るようになりました。冗談も理解します。歯のない笑顔は埴輪のようで
とても可愛らしく、一緒に暮らす相棒としては、悪くないと思いました。それでも、
私にとっては父親です。猫の世話をするより、はるかに意味を感じるのでした。
人はプラス志向で生きてゆくしかないですが、老化と認知症は、プラス思考だけでは
どうにもならない面があります。人として、できて当然のことができなくなるのです。
それは、父にとっても辛くないはずがありません。粗相をして、子に叱られるのです。
今を生きるしかない人生ですが、もし、人生を何回も繰り返すことができれば、介護
されるという辛い立場も経験し、人生で何が大切なのかも少しはわかり、介護をする
のも、されるのも楽になるかも知れません。1度しかない人生です。私も、少しでも
かわいい被介護者になるため、無駄になる可能性も高いですが、できる修行があれば
してゆくしかありません。おほほ
人間の尊厳って何?
【返信元】 介護の理想
2019年09月16日 20:15
歴史を見ると、人間の尊厳は建前だけだと思えるようなことがたくさんあります。
さらに昔は、偉い人以外には人間の尊厳などはなかったのかも知れません。
夢を見ました。私は脳の病気でベッドに拘束されて暴れています。ベッドの周りに
は医師と看護師、親戚や友人もいます。誰もが色のない暗い顔で、私を見つめます。
私は言葉が話せず、ただわめき、動かない体を全力で捩り、暴れています。普通に
見れば、私は廃人に見え、以前の私ではないと誰もが思う状況です。でも、私の頭
はイライラしていますが、連続した記憶も、感性も生きているのです。私が言いた
いことはただ一つ、背中が痒くてしかたないということなのです。痒くて痒くて堪
られないのです。拘束されていて動けないので、血の出るほど掻いて欲しいのです。
誰も気付いてくれません。私は認知症患者として一括りにされてしまったようです。
その時、誰が私の背中にの痒さに気付いてくれるでしょうか。恐ろしい夢でした。
人間の尊厳とは、高い倫理性が求められますが、とても曖昧なもので、定義されず
に使われ、案外簡単に無視されてきたのかも知れません。道徳的な要求には耐えら
れない構造なのでしょうか。人の心は計り知れないものですが、私は、背中の痒さ
に暴れるしかないということかも知れません。尊厳とは、強引に言えば、みじめな
思いを強要されない事だと思います。虐められないという事です。難しいことですが、
心が破綻しそうになっている。あるいは一部が破綻していたとしても、その尊厳を、
できる限り守るのが、介護者の仕事かも知れません。
介護は自分の問題でした
【返信元】 介護の理想
2019年09月14日 16:08
介護は他人事ではありません。自分のこととして対処するしかありません。
私たちは、つい、目の前にイライラする原因があるような気がしますが、
実際は、自分の中にいらだちの種があるからイライラするわけです。
足りないものがあるから幸せではないと思っていても、実際は、視点が変わ
れば、今の瞬間にも幸せになる可能性もあるわけです。幸福も不幸も、自分
で選んでいると言えるのかも知れません。視点次第ですが、今ある幸せを数
えれば、すぐにでも幸せになれる可能性もあるわけです。
私たちは、今しか生きられないのに、過ぎ去った出来事や、まだ来ていない
未来の不安を、今の苦しさに重ねてしまいがちです。それほど不幸でもない
のに、介護では、雰囲気で不幸が定着してしまうこともあります。それは避
けなければいけません。できるだけ、気持ち良く介護したいですからね。
新しい自分を経験するために生きている私たちですが、一つの見方には、見
えていない部分もあるものです。異なる見方に真摯に耳をかたむけることで、
自分には見えていない部分が見え、客観性を保ちやすくなります。
孤独は介護者の大敵です。私は、デイの日などを利用し、介護者のサロンな
どの集まりに積極的に参加し、自分の介護を見つけようとしました。
認知症の介護は、たとえ親子でも、今までの人間関係を、新しく作り直す必
要があります。被介護者と共に経験を重ねながら、少しづつ、慣れてゆくし
かありません。新しく気付いたことがあれば、あっさりと行動を変えてしま
いましょう。人生が長くなれば、介護は普通に起きることです。力まず、上
手に流されることができれば、介護も少しは楽になるような気がします。
介護者は何度でも立ち直る
【返信元】 介護の理想
2019年09月13日 06:19
私は、65歳を過ぎた頃から、自分の肉体が自然に還りつつあることを感じ始めま
した。父の介護を通して、最後は自然に還ることを見てきたのに「あーでもない
こーでもない」と、ジタバタしながら、お医者通いで、薬を飲み続けています。
弱ってしまった親を介護するのは、当然のことだと思いました。介護は、人生の
道場という面もあります。今までの常識だけでは通用しないのが介護です。
私たちには殺した細菌の悲鳴は聞こえません。食べた肉の死の瞬間も知りません。
細菌の存在や、家畜の死に意識を持ってゆかないから痛みを感じないで済むわけ
ですが、今までに感じなかったことを感じるようになるのが、親の介護でした。
介護で経験する怒り、恐れ、悲しみは、とても強い感情で、日常生活がそれに支
配され続けると大変です。そうなると、自ら苦しみを作り出し、それを制御でき
ずに苦しむ場合もあります。誰もが、喜びや悲しみに満ちた人生を生き、やがて
自然還ってゆく存在です。被介護者の本音は、無条件に愛して欲しいということ
だと私は感じました。それは、高齢者も子供も同じで、その適任者は家族です。
贅沢な施設や、美味しい食事や、素晴しい介護環境より、家族に、大切な人とし
て扱って欲しいのが、被介護者の本音だと感じるのです。先の見えない状況にあ
る被介護者の心の支えになるのは、やはり、家族なのだと思います。
人が生きるために、優しい心というのは、どうしても必要な条件だと、私は思い
ました。どんな宗教でも、共通して説いているのは、この「優しさ」ということ
で、人間は、互いに助け合うことが、大きな力になると教えています。
介護中は、苦しいことも多いですが、運命として受けとめ、状況を少しでも明る
くするため、謙虚に頭を下げて助けを求めるしかありません。絶望して、投げ出
したくなることもある介護ですが、助けてくれる仲間を見つけ、たとえ、介護で
失敗することがあったとしても、気を取り直し、新しい介護者として、何度でも
立ち上がり、介護の仕事の意味に気付いてゆくしかないと思います。
介護を楽にする言葉たち
【返信元】 介護の理想
2019年08月22日 08:20
家族が介護状態になると、介護する方もされる方も、今までとは違う関係に
なります。親子であれ、夫婦であれ、新しい付き合い方が必要になります。
期待も、役割も、力関係も変わり、双方が混乱する時期もあるのが普通です。
誰でも介護は簡単なことではありませんが、人生の中では大切な時期です。
介護も人生も、正解は一つではなく、様々だと思いますが、どんな方法でも、
介護に関わる双方が、少しでも幸せになれるなら、それが一番だと思います。
そのために、様々な言い訳や理屈を考えます。自分の気持ちを整理するために
私も色々考えました。人から聞いた話や、思いついたことを書き出しました。
その都度、自分を助けてくれた言葉です。皆さんにもそれはあると思います。
辛さを感じている介護者には、どんな言葉が役立つかわかりません。
今は受け入れられない言葉でも、タイミングで、受け入れられる時もあります。
小さな言葉が小さな余裕を生み、それが重なることで、介護の流れは良くなる
と思うのです。

1 失敗しても、すぐに新しい介護者に生まれ変わる
2 心掛け次第で、要介護者は福を育む田んぼになる
3 介護者が被介護者より先に変わるしかない
4 初めは嘘でも、それを真実に変えれば良い
5 情に流されないように親を名字で呼ぶ
6 感情はパワーがあるが、真実ではない
7 あくまでも、ありたい自分を目指す
8 別れの日を想像しながら介護する
9 介護は辛いだけじゃない
10 介護は人生修行
11 介護は生前供養
12 バカヤロウを言い合うのはバカヤロウの極致
13 失敗は経験に変える
14 介護も本気になれば楽しみもある
15 慣れは、上手に習熟することで、介護の最大の力になる
16 人は見つめたものしか見えず、見つめるほど拡大する
17 家族介護は、一人を看れば良いのだから楽なはず
18 人は、理想からみれば誰もが認知症
19 満たされた介護者は誰も攻撃しない
20 介護されるより、する方が良い

ここからは、介護された父の言葉です。これは介護者の私も助けてくれました
1 笑うより良いことはねえ
2 今更バカは怖くねえ
3 うんこが怖くて飯が食えるか
4 痛いところがなければ上等だ
イライラを減らすには
【返信元】 介護の理想
2019年08月01日 05:58
イライラは、怒りを我慢している状態です。自分が自分に許していないことを
他人が平然としているのを見ると、許せない感情が湧きあがるのを経験します。
それは、自分の中にも同じ欲求があるということです。人の不完全が目に入る
ということは、自分の中にも、同じような不完全があるということです。
また、矛盾する感情を同時に抱えてしまうこともあります。細かいことは色々
ありますが、簡単に言ってしまえば、トラブルというのは、互いが互いの正し
さをぶつけあっているということです。自分の中で、いくつもの価値観が戦っ
ていたのでは、気持ち良く介護を続けることはできません。
私はこんな風に考えました。人は迷惑を掛け合う存在です。何もできない赤ん
坊で生まれ、最後は介護され、供養までしてもらいます。全く誰にも迷惑をか
けずに生きることはできませんから。互いに堂々と迷惑を掛け合うしかありま
せん。自分が迷惑をかける分、人の迷惑も、甘んじて受け止めれば良いのです。
そう思う以外に安心はありませんでした。それが無理と感じたら、施設もあり
ます。そのための施設です。入所申込書は私のお守りのようなものでした。
イライラも含め、あらゆる感情は全身全霊で受け止め、一旦は味わい尽くすし
かないと思います。人は気付いてしまえば、どんな問題も自分の問題になり、
解決の糸口が見えてきます。誰かのせいにしていては、突破することはできな
いと、介護の中で何度も自分に言い聞かせていました。
イライラを乗り越えるには、その意味を理解することです。それは、短い時間
に生じた感情の一面で、風景のように過ぎ去ってゆくものです。自分の本当の
気持ちに意識を向け、自分が今感じている感情を流れの一部として捉え、イラ
イラを他人事のように自分から切り離すのです。簡単に言えば、良くない思い
は、屁のように早く忘れてしまうことです。これも慣れでした。おほほ
介護では、過去の常識が通用しなくなりました。
【返信元】 介護の理想
2019年07月29日 20:42
どこの国のどの時代でも、社会は私たち人間を生まれたままで、ほっておきません。
生まれたときから、子どもは多くの大人達によって、社会の善良な一員として教育
されます。人間の本質がどこにあるのか、私には良くわかりませんが、人間は恐ろ
しく身勝手にも、残酷にもなれます。何が人間の本質なのか?。私は父の介護で考
えるようになりました。いくつもの矛盾する感情を同時に抱える介護です。自分の
本当の気持ちを見極めるのは、とても難しいことでした。
一人で生きていると豪語しても、社会で生きている限り、必ず誰かとつながってい
ます。でも、介護するのが本当に嫌なら、介護から逃げることは可能です。全ての
縁を切って蒸発すれば良いのです。それこそ自分の為だけに生きられます。全ての
縁を切ることのできない私は、何とか楽しい介護を目指すしかありませんでした。
私たちは、時代や環境の影響を受け、価値観や行動が決まります。それが本当に正
しい選択なのか、私には自信が持てません。もし、現代社会から隔絶した島で、子
供達だけで社会を作り上げたら、どんな社会ができるのか。もし、貨幣が発明され
なかったらどんな社会になるのか?。私は根本から考え直しました。常識だけでは
介護がうまくゆかないのです。結局は良くわからないのですが、色々な妄想やアイ
デアは湧いてきます。介護は、今までの価値観だけではうまくゆかないのです。特に
認知症の介護では、介護者は被介護者に合わせて柔軟に変わってゆくしかありません。
様々なアイデアを試しました。難しくても、明るく頑張る以外に道はないのでした。
介護では、追い詰められないことが大切です、上手に気分転換をし、柔軟性を失わ
ないようにしたいです。介護の孤独を避け、サロンなどに参加するのも良いと思い
ます。視点が変われば世界の見え方も変わます。それが介護の流れを良くしました。
介護されて気付いたこと
【返信元】 介護の理想
2019年07月14日 08:30
介護されるようになると、介護してくれる人の言葉や態度に敏感になります。
私は入院中、介護される立場を経験してそう感じました。オムツを交換して
もらい。導尿してもらうことは、保っていた何かを捨てる経験でもあります。
病を得て、多くの人たちの世話になるしかなくなった場合、酷い言葉で侮辱
されても、疎まれても、介護してくれる人を信じ、泣いて親の後を追う子供
のように、人を信じ続けることは、私には難しいと感じたのでした。
病人は、病人として精一杯生きるしかないとは思うのですが、苦しい中でも
可愛い高齢者でいることは、思った以上に難しいことなのかも知れません。
自信をなくし、卑屈な気持ちになっているところに、長い人生の中でどうにか
保ってきたプライドが崩れてゆく場合、良い高齢者であり続けるのは、私には
とても難しいことに思えたのでした。多くの高齢者が我が儘になるのも理解で
きます。介護されるということは、長い人生の中でも大きな転機です。
自分の都合に合わせた思考をする傾向のある私たちです。わかった気になって
いればその時だけは安心ですが、困難は、思いがけない時にやってきます。
介護者自身が病を得て、愛する者からお荷物だと思われる悲劇もあるのです。
福祉という考えは、昔から、小さな集団や、家族の中にはあったと思います。
福祉は、公的扶助による生活の安定や充足、また、人々の幸福を公的に達成
しようとすることであり、共助の一つだと思います。お馴染みの介護保険は、
2000年4月に始まったばかりの新しい制度です。
人が幸福だと感じる内容や幸福感の度合いは様々ですが、人が人らしく生命を
維持し、生活を豊かに発展させようとすることは、日本国憲法で人間の権利と
されています。幸福は、一人の私的レベルの幸せのことですが、福祉は、一人
ひとりの集まりである社会レベルの幸せを意味すると思います。ここが介護の
難しい一面ですが、誰かが介護の犠牲者になってしまってはいけないわけです。
福祉は、自己責任という言葉で片付けてしまっては、福祉にはなりません。
幸せは、人より自分という利己的な面もある一方、福祉には、全体の幸せとい
うニュアンスがあるように思います。誰もが老人になり、誰かのお世話になる
可能性は高いです。私たちは、健康保険、老齢年金、介護保険などの保険制度
を、どんな風に充実してゆけるのできるでしょうか。
入院で幻覚の経験をしました
【返信元】 介護の理想
2019年07月02日 17:03
私は幻覚の経験が2度あります。一つは練炭による二酸化炭素中毒です。
そして、今回の手術です。術後の痛み止めの作用なのだと思いますが、
同じ幻覚が、繰り返し現れました。アナウンサーのような看護師さんが、
ベッドの前に現れ、私の病状の説明をします。イエス・ノーの二択で、
選んでゆくシステムです。結局、良くわからない結果になるので、何度も
同じ幻覚を見ていましたが、時間の経過とともに、現れなくなります。
どこかに映像機器が隠してあるのだろうと探しても、どこにもありません。
色々探して考えた挙句、これは、もしかしたら薬のための幻覚だと気付く
ことになります。今回の入院でも、新しい貴重な経験をしました。
二酸化炭素中毒の時の幻覚は、今でも忘れられない恐ろしいものでした。
私は、30センチほどの光の玉になってしまいます。でも、誰にも気付か
れず、こちらの意思も伝えられません。私は、誰とも関われない存在に
なってしまったのです。どの幻覚も、その時はもの凄くリアルなのです。
退院はしましたが、今でも不調は続きます。もしかしたら、今も幻覚を
見ているのではないかと思うこともあります。幻覚は、その時には真実
なのでした。お医者さんも看護師さんも、そして、介護者も、未経験の
ことに対処しなければなりません。経験のないことは、勉強するしかあ
りません。私は、色々工夫して、インターネットのサイトや介護者の集
いに積極的に参加し、多くの経験や考え方を知ろうと思いました。助け
になる考えや視点は必ずあります。それが、視野が狭くなりがちだった
私の介護を柔軟に変化させてくれました。介護は、する方もされる方も、
今までの生活や考え方を変えなければならない面がありますから、大変
なのは当然です。慣れるしか道はありませんでした。おほほ
入院体験 理学療法士の仕事
【返信元】 介護の理想
2019年07月02日 16:55
入院した病院は、リハビリに力を入れています。術後2日目にはリハビリが始まりま
した。2日目の朝「おはようございます」元気な声のお嬢さんがやってきました。
「今日からリハビリを始めます」「えっ!」やっとトイレまで行けるようになった
ばかりです。お嬢さんの次の言葉が私の心を捉えました。「水切りを検索しましたよ」
病院職員の誰かが気付いて教えたのでしょう。話は続きませんでしたが、理学療法
士のお嬢さんとの距離は一気に近づきました。これからリハビリを担当する相手の
事を知ろうとする態度はその後も感じられました。相手をその気にさせる話術も若い
のにお見事です。仕事を超えた喜びを見い出しているのも感じられます。便失禁や
導尿が必要で、何も食べられない私ですが、リハビリは医師の指示なのでした。
今回の入院では、辛い面もあるリハビリでしたが、唯一、楽しい時間になりました。
リハビリは1日2回行います。多少不調でも、私は乗せられて頑張ります。リハビリ
専用の部屋はとても広く、様々な器具が用意されています。患者がそれぞれのレベ
ルで頑張っています。階段を上り下りする人、歩行練習をする人。布団から上手に
寝起きするための練習や、キッチンで、料理の練習をする人もいます。
その設備を見ただけで、リハビリの意味が理解できます。健康とは、自分が健康であ
るかないかを意識しない状態のことかも知れないと思いました。
当然ですが、リハビリは無理強いはしません。できなくても、それを責めません。
高齢や病気で、様々なことができなくなって、それを責められたら、誰でも悔しい
でしょう。支配するのではなく、あくまでも、やる気を引き出すように励まします。
家族介護では、励まし過ぎたり、気持ちを押し付けたりしがちになってしまいます。
怒りは、自分の身を守るための感情で、全ての人に備わっている心の動きですから
なくすことはできません。人は強制されたり、指示されるのは好きではありません。
まして、介護者がイライラして、勢いにまかせて攻撃や非難をすれば、当事者は
誰よりも傷つきます。殴らなくても、相手の心を傷つけるような嫌味を言うのも
虐待に当たるとは、誰でも知っています。これをある程度コントロールできないと、
介護もリハビリもうまくゆかないでしょう。やはり、介護は難しい仕事です。
今回の入院で、過去最悪の事態を経験した私は、自信を失い卑屈になっていました。
医師や看護師さんの患者に対する接し方や言葉に敏感になりました。元気な側の正
論が、私を不穏にするわけです。その中で、患者を理解しようとする態度に、私は
救われる気がしました。やはりプロの仕事は経験と伝統に支えられているのでした。
今回も専門家に助けられました。家族介護者の一番の役目は、要介護者の心の支え
になることです。様々なサービスを利用しながら、自分流の介護方法を見つけ出し、
少しでも介護生活の中に楽しさや充実感を見出してほしいと思います。
Re[2]: 介護される立場を経験しました。
【返信元】 Re: 介護される立場を経験しました。
2019年06月19日 11:06
もう、ダイジョブダー
排泄をコントロールできない私・・・
【返信元】 介護の理想
2019年06月19日 11:05
手術後、水様便の激しい私は、リハパンに替えました。トイレまで間に合わずに
失禁した場合、ズボンやパンツの履き替えが難しく、看護師さんの協力が必要に
なります。その時に普通のパンツより、リハパンの方が私の気持ちが楽なのです。
父の介護をしたからですが、素直にお世話になる覚悟がしやすくなるのです。
下着や生活用品は、病院内の業者と契約しました。とりあえず必要な物はそれで済
みますが、ペットの世話や地域の用事などは、弟にお願いするしかありません。
弱った人が生きる為には、助け合うシステムが必要です。私は、父の介護という役
割を果たしましたから、弟たちは、私のピンチに協力してくれるわけです。
自分の孫以上に若い看護師さんに、オムツを替えてもらうことに抵抗感のない人は
いないでしょう。私は、明らかに臭くて汚い老人ということになります。おまけに、
途中からは、尿も出なくなりました。こうなると、もうプライバシーも何もあった
ものではありません。先からカテーテルを挿入。尿を抜いてもらうわけです。
看護師さんは、私を汚いものとして扱っているという感じを出さないようにします。
私も看護師さんの表情を見ないようにしています。何とも微妙な時間が流れます。
私は今、誰にとっても好ましい状況ではないわけですが、看護師さんは、それを
感じさせません。人の尊厳とは、大きなことではなく、そんな対応の一つ一つだと
思うのでした。この対応が、家族介護で難しいのは何故でしょう?。
カーテンを隔て、大きな手術を控えた家族が話しています。娘さんが「大丈夫だよ」
と励まします。普段は親風を吹かしていると思われるお父さんは、不安を漏らし、
話は噛み合いません。手術を終えたお父さんは大部屋に戻り、深夜は一人きりです。
小さな呻き声を漏らします。私はそれに応えて小さな呻き声を返します。深夜の大
部屋に、言葉のない共感が伝わります。介護者という生き方は微妙なものです。
小さな思いやりや、小さな気遣いを積み重ねるしかないのかも知れません。介護は
福祉や人権という、人間だけが到達した価値観、文化に支えられているのです。
Re: 介護される立場を経験しました。
【返信元】 介護される立場を経験しました。
2019年06月19日 08:50
おじちゃん
介護される立場を経験しました。
【返信元】 介護の理想
2019年06月18日 20:55
数週間前より腹痛に苦しんでいました。私には、潰瘍性大腸炎という持病があり、
とても痛いのです。今回も、それと思い込み、いつもの薬で治療していました。
ところが一向に良くならず、別の病気ではないかと感じ、大病院での検査となり、
虫垂炎と判明、その日に緊急手術となりました。すでに虫垂は破裂し、腹膜炎を
起こしていて、傷んだ大腸と小腸の一部を取り去り、再建するという厄介な手術と
なりました。手術は成功したと思いますが、術後の経過が悪く、17日間の苦しい
入院生活となりました。術後の痛みは仕方ないと思いますが、オナラが出ず、水様
便が8日間も続き、脱水状態。点滴のほとんどが水様便となり、失禁。トイレから
ナースコールです。水様便が少し良くなると、次は尿が出なくなり、導尿をお願い
しなければならなくなりました。点滴だけで10日間を過ごし、腸が少し動き出した
ので、水分を口から取ることになりましたが、少しでも口から水分を入れただけで
吐いてしまいます。私は、何とも汚く、気持ち悪い老人になってしまったようです。
便を漏らし、尿は出ず、かなり惨めな老人になってしまいました。傷口も膿んでしま
い、治りません。総じて、手術を受ける患者は、弱気になり、少し卑屈な態度になっ
ていると感じました。私は、堂々とナースの世話になっていましたから、可愛い爺
さんになるのは難しいと感じました。張り裂けそうな膀胱から、カテーテルで、汚い
爺さんの尿を、優しく出してくれるナースは、やはり白衣の天使に見え、後ろ姿に
手を合わせます。そんな私を軽蔑するような言葉や態度を誰かが見せるなら、たぶん
私も不良爺さんになってしまうのでしょう。
今回も新しい経験をしました。どんな人も、老いがやってくるのは自然なことです。
安心、平和、幸福は、いつも優しさの中にありました。今回も看護師さんには助け
られました。まだまだ、内臓は普通の状態ではありませんが、少しづつ戻りつつある
気がします。病院には多くの患者がきます。3日で退院する人、大きな手術を控える
人、それもできない患者。厳しい命の現場に立ち会う、優しい医師やナース。多くの
人に助けられ、おばやんの待つ、家に帰れたことを心から感謝しています。
感情とうまく付き合うために
【返信元】 介護の理想
2019年05月10日 14:01
介護では、介護者も被介護者も、感情の制御が大きなテーマになり
ます。野生的なパワーを持っている感情は、制御なんてできないの
かも知れませんが、外ではある程度コントロールできていますから、
家族間でもできないことはないはずです。感情はなくすことはでき
ないし、なくても困ります。これは、介護があってもなくても人生
の大きなテーマの一つです。
人生は、思い込み、勘違い、妄想、錯覚でできていると感じます。
私たちは真実を認知する能力はないのかも知れません。だからこそ、
都合の良い勘違いを採用することもできるわけです。自分のご機嫌
は自分でとるしかないのです。
誰もが自分の人生、自分の命を生きるしかありません。誰かの人生
を代わりに生きることなどできないのです。
自分は、これからどうしたいか、どう生きたいかは、自分で決める
しかないわけです。それが、その人の生きる土台になります。その
土台を現状に合わせ、柔軟に変えてゆくのが人生かもしれません。
人は、細部を見れば細部が見え、大局を見れば大局が見えます。
自分の心が迷子になったら、どこからでも見ることができるという
ことでもあります。自分で見つけた答えだけが、自分が受け取るこ
とのできる答えです。
認知症の父を眼の前にして、新しい付き合いの方法がわかりません。
今までの習慣が通用しないのです。父の真実と、私の真実が、今ま
でとは、あまりに違うのです。つまり、変化に対応できないために
生じる混乱なのでした。何とかして対応するしかないわけです。
心のことは、マニュアル化はできませんが、原理というものはある
ような気がします。目の前の人間関係や、そこで起こる気持ちの揺
れる原理を知れば、少しは、上手に対応できるはずです。それは、
自分も相手も否定しないことです。高齢になれば、誰もが心も体も
若い時とは変わってきます。柔軟に心の習慣を変えてゆけなければ、
幸せな高齢者にはなれそうもありません。
柔軟に変わってゆくことで、少しは生きやすくなります。感情に振
り回されるのではなく、抑え込むのでもなく、できるだけ穏やかに
感情を味わい尽くし、その意味を探り、感情と仲良く付き合うしか
ないのです。自分の感情を、自分で観察することができば、感情に
飲み込まれることは少なくなります。難しいことですが、私には、
他の方法は見つけられませんでした。おほほ
家族って何だろう
【返信元】 介護の理想
2019年05月10日 13:58
家族って何だろう
人は、誰かに認めてもらえれば、自分の存在に安心できるものです。
誰かの助けになる仕事や、人に認めてもらえる仕事をしているのは
素晴らしいことですが、心の底から、自分で自分を受け入れること
ができなければ、不安が付きまといます。失敗したら今の幸福が逃
げてしまうのではないか。本当の自分を見られたら、嫌われてしま
うのではないか。そんな思いが後から後から湧いてしまうでしょう。
家族が、何の理由もなく愛してくれることで、子供は安心できます。
誰かに認めてもらえる自分だから安心なのではなく、資格や役割を
もっているから上等なのではなく、ただ生きているだけで上等だと
思えるのは、家族のおかげかも知れないと私は思うのです。
認知症の父は言いました。「今更バカは怖くねえ」これに、私は応
えたいと思いました。
家族が、役割を果たしてくれたから、私は、自分の幸福を追求でき
るまでに育ちました。そんな父のお世話ができなないとすれれば、
私も安心できません。どんな介護を選んでも、私が主介護者です。
父も、私と同じように、人を攻撃してでも自分を守りたいし、不安
なのだと思いました。善と偽善の線引きは難しいですが、受け止め
る私の気持ち次第で、幸せな介護もあり得ると思えるのでした。
何もできない生まれたばかりの赤ちゃんにも、存在価値を認めるこ
とのできる私達です。様々なことができなくなった高齢者の人生に
も、敬意を払うことはできるはずです。誰もが懸命に生き、同じ運
命を辿ります。その共感が、優しい介護につながります。
信頼し合うことが、家族の安心につながります。家族は、そのメン
バーを社会から守ったり、幸福の追求を支えます。
でも、家族のメンバーが自分の信念を絶対として支配的にふるまっ
たり、その役割を果たせない場合、家族を苦しめることもあります。
問題のない組織がないように、何の問題もない家族もないでしょう。
どこかで忍耐も必要です。そうでないと、安全基地としての家族の
役割は果たせません。たとえ、期待が裏切られたとしても、遠く離
れていても、認知症になってしまっても、愛し続けることができれ
ば、それが家族ではないでしょうか。私は、父の家族なのでした。
こんな私でも、傍にいることで、少しでも父に安心してもらいたい
と思い、幸せな介護を目指して頑張るしかないのでした。おほほ
家族介護
【返信元】 介護の理想
2019年05月07日 08:52
家族という関係は不思議なものです。長年一緒に暮らししていると、自分と
家族の境界線が見えにくくなり、互いに甘えが出やすいものです。結果、遠
慮や節度を欠き、他人には絶対言わないようなことを言ってしまうものです。
家族介護では、そこが難しいと実感しました。父が不機嫌だったりすると、
その感情に反応してしまいます。さらに、イライラをぶつけられたりすると、
同じ感情で返してしまい、火に油をそそぐ結果になってしまうこともありま
した。結局、相手の感情に振り回されない以外にないのです。どんな時でも、
自分の気持ち次第ということです。私も、父の気持ちが落ち着いたのを確認
してから、穏やかに自分の気持ちを伝えれば良いとわかっていても、それが
難しくなってしまうわけです。馬鹿野郎同士で、馬鹿野郎を言い合うという
ような、おバカの極致を演じてしまうのでした。
実際、親子であることは、特別な関係です。その縁ある人に対して、愛情の
ある言葉で伝えれば、感情的な言い争いにはならないはずです。家族は、
たくさんの思い出を共有している特別な存在です。視点を変えれば、二人の
幸せは、小さなところにもたくさん隠れているのでした。考え方次第ですが
家族介護は、それをうまく使えれば、介護しやすいとも言えるわけです。
介護では、お互いに被害者意識を持ってしまうことさえあります。それは、
最悪のパターンでした。被害者意識は、互いに自分の幸せを見えなくしてし
まいます。家族介護は、ケースバイケースで、一律に論じることではないの
かも知れません。当人の気質や性格、環境にも左右されるでしょう。
それぞれの生き方は、結局はその人のものです。正しいかどうか論ずること
には意味がないのかも知れません。どうしたいかは、自分の気持ち次第だと
遅まきながら気付くのでした。
もしも、納得できない介護を続けているのなら、自分の気持ちと真摯に向き
合い、自分の本当の気持ちを確認するしかありません。人生は、いつ終わる
かわかりません。先伸ばしにし、いざその時が来た時に後悔しないため、本
当に大切なことは何なのかを見つけ、それを行動に移すしかないのです。
言い訳をせず、自分の本当の気持ちを知ることが、何にもまして大切だと気
付かされるのでした。
過去は変えられません。私は、できるだけ父と仲良く暮らす道を選びました。
自ら選んだということが大切です。それが、どうしたら良いかをわかりやす
くしてくれました。たとえ失敗しても、自分で選び、自分で決めたのなら、
それをまっとうするしかないわけです。失敗したとしても、その瞬間から、
何度でも新しく出直すしかないのです。誰もが不完全を生きているわけです
から、許し合うことが生きることを楽にします。すべての感情は、最終的に
は自分自身に向けられているものなのでした。
介護者は、介護された経験がありませんから、被介護者の気持ちはわかりに
くいものです。介護は、被介護者と向き合うと同時に、自分自身とも真正面
から向き合うしかありません。それが介護を楽にしてくれると思います。
高齢者の困難
【返信元】 介護の理想
2019年05月02日 06:28
人間は、乳児期から高齢期に至るまで、環境の影響を受けながら発達を続けます。
しかし、最終段階の高齢期は、それ以前から獲得してきた能力や体力などが衰え、
結果、社会との関わり合いが少なくなり、無力感を感じることも多くなります。
私も今、それを経験をしています。高齢期には、若い頃の価値観のままでは済ま
ないことが多くなり、人生の中でも、特に複雑な問題を抱えるようになります。
その一方で、危機を乗り越えながら元気に暮らすお年寄りも増えています。自由を
謳歌している高齢者は、身近にたくさんいます。それが高齢者の理想かも知れませ
んが、健康年齢を過ぎ、その後が長くなることで、要介護という現実に直面する
高齢者も増え、絶望という、現実的な問題に向かい合うこともあります。そうなる
と、高齢者には何らかのサポートが必要になるわけです。介護問題の発生です。
家族の世話にならないで済めば良いのですが、現実はそうもゆきません。高齢者
医療の分野で、特に問題となるのが認知症です。認知症を患い、様々な場面でわか
らないことや、できないことが増えると、どうしても他者のサポートを受けなけれ
ば生活できないという状態にもなってしまいます。
認知症特有の症状は、周囲を混乱させ、認知症高齢者は、何とか自分にできること
を探し、その場を切り抜けようと必死に頑張りますが、事態はますます悪化します。
そんな周囲とのズレは、認知症高齢者の存在を不確かなものにし、自己の存在に対
して、不安や混乱を生じさせます。このような混乱に起因する患者の自信のなさや
葛藤は、周囲に理解されにくいため、認知症患者は全面的にサポートを受けるだけ
の存在だと画一的に思われてしまうこともあります。これは、介護者の経験してい
ないことですから、理解が難しく、子供扱いしたり、廃人というレッテルを貼られ
てしまう場合があるかも知れません。
それでも、経験と、連続した自己は確実に存在しますから、自分の生きがいやプラ
イドを必死に保とうとします。でも、それは難しいことです。さらに、自分の子供
や孫に屈辱的な言葉を掛けられたり、家族の幸せの障害だと思われていると感じた
ら、どんなに辛いことでしょう。多くの場合、不穏になるのも理解できます。
ついに、私にもその時期がやってきた感じがします。喪失体験は、悟りに至る入り
口なのかも知れませんが、私の修行には、どれだけの時間が必要でしょう。殿は、
案外早く悟ったような気がします。私も大丈夫と思うことにしまょう。おほほ
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